ジェボーダンの歴史

アキテーヌ男爵であるギヨーム一世の死後、オーベルニュ伯爵とトゥールーズ伯爵、およびポワティエ伯爵の三家がアキテーヌの権力を巡って争いました。フランス南西の多くの町では、公爵によって任命された子爵たちが、独立と伯爵の序列を求めて独自に動いていました。

ジェボーダン伯爵は960年前後に任命され、そして1030年代に複数の子爵にその地位を譲りました。11世紀の終わりに、ミロー・ギルベール子爵が複数の伯爵を招集し、新たにジェボーダン伯爵を名乗ります。伯爵家は婚姻によりのちにアラゴン王国となるバルセローナ家と縁を結びます。しかし、アラゴン王国による進出を恐れたフランスの王、聖王ルイが行ったジャック一世との地方買い上げの交渉が行われ、再びフランス側に組み込まれる事になりました。さらに、カロリング王朝によるアラブからの奪還を経ることで、政治的な方針の違うフランク王国との分裂をし、貧しいアキテーヌ地方は関心を向けられる事もあまりなくなり、交通に不便な農業地となったのです。

百年戦争の到来までは、幾人かの封建制度の領主たち(八人の男爵)によって実質的な統治がなされました。彼らは、権力に対抗できる唯一の組織である教会を後ろ盾に、王家との仲介者として、成り代わりを果たします。(1306年の領主権)そして、この統治は15世紀の終わりまで続く事になりました。

4世紀から7世紀の間、「ジェボンダンの八人の男爵」と呼ばれた領主たちは、強固な城と要塞を中心に封建制度の元に土地を管理します。城や要塞は守りと服従の象徴と見なされ、時代によって人々に、時代と場所、あるいは所有者の性格によって、安全を保証するものや脅かしたりするものへとその象徴や意味合いを変えてきました。特に言及すべきはサン・ジュリアン・ド・トゥルネルとサン・ジュリアン・ド・アルパオンのポートにある二城です。(ガール県にありながら所有権はシャトー・ヌフ・ド・ランドンにあります)


まがに南東に居住していたのはごく僅かな自由農民でした。古典的な封建的な統治のもと、彼らは皆おなじような生活を送っていました。領主は封建制度をもとに統治しましたが(理論上では王のものですが)、領地は他に比べて価値の低いものでした。彼らは領民と戦士たちに対して、物資の支給と引き換えに税の支払い、あるいは城の守りを固める事や領地の経済を活性化させることなどの労働を対価として求めました。